シリコンバレーの父ロバート・ノイス

IT Conversationsで配信されているTech Nationに、「The Man Behind the Microchip: Robert Noyce and the Invention of Silicon Valley」の著者のLeslie Berlinが出演していた。ここでMP3ファイルがダウンロードできる。内容は以下のとおり。

トランジスタを発明した3人のうちの1人ウィリアム・ショックレーがカリフォルニアで半導体ベンチャーを始めたときに、全米から8人のトップクラスの科学者が集められ、ロバート・ノイス(Robert Noyce)はその1人だった。しかし8人はショックレーとうまくいかず、1957年にショックレーのもとを離れてフェアチャイルド社を作った。

創業メンバーの8人はいずれも科学者で経営には興味がなかったので、経営者をやとった。しかしうまくいかず、経験はなかったもののノイスが実質的な経営となった。フェアチャイルド社は順調に業績を伸ばした。ノイスはオープンコミュニケーションを奨励し、フラットな組織にし、今日的なテクノロジー企業文化を創出した。

ノイスは更にストックオプション制度を導入しようとしたが他の経営陣にはばまれ実現できなかった。そして、フェアチャイルドからスピンアウトした人が作った会社がストックオプションを導入して成功しつつあるのを見て、フェアチャイルド社を去ることを決意した。

1968年にノイスは同僚のゴードン・ムーアともにインテル社を創業した。ノイスはチームワークを重視し、その一環として現在でもインテル社では社長にいたるまで個室(office)は持たずパーティションの中(cubicle)で仕事をしている。インテル社の経営は以下の3人のチームワークでおこなわれた。ちなみに3人はいずれも博士号を持っているが経営学修士(MBA)は持っていない。

  • ノイスが顧客獲得や方針策定をおこない(Mr. Inspiration)
  • ムーアが技術開発を担当し(Mr. Perspiration)
  • フェアチャイルド社でムーアの部下だったアンディ・グローブが生産を担当した(Mr. Implementation)

ノイスはシリコンバレーの新興企業を育てることにも力を注いだ。シリコンバレーの新興企業をたずねて技術者から話を聞いたり、経営者に助言を与えたりした。スティーブ・ジョブズの助言者(mentor)ともなっている。

名門ベンチャーキャピタルの1つKleiner Parkinsのユージンーン・クラナイナー(Eugene Kleiner)もショックレーの下に集まり、その後ショックレーのもとを去ってフェアチャイルドを創業した8人のうちの1人である。ノイスの回りにいたムーア、グローブ、クライナー、ジョブズウォーレン・バフェットらは一人ひとり傑出した人物だが、それらの人物がコミュニティを作りシリコンバレーを形作ったことは更に興味深い。

1980年代半ばに50歳代でインテルを退職してしばらく隠居生活を送った後、ノイスは米国半導体産業のために力を尽くす。当時日本の半導体産業に米国の半導体産業は脅かされていたからだ。ノイスは自分が生涯をかけて作った成果がなくなってしまってはならないと思ったのだ。

ノイスはもう1人の集積回路(IC)の発明者であるジャック・キルビー(Jack Kilby)と共にNational Medal of ScienceとNational Medal of Technologyの両方を受賞している。そして、ノイスは1990年心臓発作で62歳で死去した。キルビーは2000年にノーベル賞を受賞している。死亡した人物にノーベル賞が与えられることはない(no posthumous nobel prizes)ので、ノイスが2000年に受賞しななかったのは当然だが、もっと早くノイスやキルビーの研究成果を認知すべきだったという声はある。

ノイスにはもう1つノーベル賞を取れたかもしれないチャンスがあった。1973年に江崎玲央奈がトンネルダイオードの発明によりノーベル賞を受賞したが、同様の研究を江崎とは独立にノイスもおこなっていた。ショックレーの下で働いていたときのことで、ショックレーに見せたが「get rid of it」(捨ててしまえ)と言われて、やめてしまった。ショックレー以外ではゴードン・ムーアには見せただけだった。それから18ヶ月後に江崎の論文が発表され、ノイスはムーアに対して「もう少し研究を続けていれば自分が先に発表できたかも知れない」と漏らした。これをもってノイスは「研究は研究者に任せるのがいい」という教訓とした。